VC経験ゼロの5.4億円ファンド、日本初のアーリーステージ投資に挑戦
グロービス・グループのビジョンは、1992年の創業当時から、経営に関するヒト・カネ・チエのエコシステムを創り、社会の創造と変革を行うことだ。
1995年の時点では、「ヒト」の要素であるビジネススクール事業と組織学習(研修)事業、「チエ」の要素である出版事業および経営研究所事業がスタートしていた。
代表の堀は当初、ベンチャーキャピタル事業の立ち上げは「グロービスに信用ができるまで待っていよう」と考えていたが、1995年末に計画を前倒しすることを決意した。その理由には、当時の日本のベンチャーキャピタル業界の事情が深く関係していた。
1990年代の日本のベンチャーキャピタルは、アメリカのそれと比べるとさまざまな違いがあった。アメリカのベンチャーキャピタルが、創業後間もない「アーリーステージ」企業への投資を中心に手がけていたのに対し、日本のベンチャーキャピタルはすでに株式公開を検討しているような「レイターステージ」企業への投資を中心としていた。また投資手法も、アメリカでは直接的かつ積極的に経営をサポートするスタイルが中心だったのに対し、日本ではお金は出すものの経営には口を出さないスタイルが中心だった。
堀はここに社会的ニーズを見出すとともに、「誰かがやらなければならない」という使命を感じ、ベンチャーキャピタル事業の立ち上げを決意した。
第1号ファンドの資金調達に取り掛かった堀は、昔からの知人や、ニュービジネス協議会で出会った起業家など、エンジェルとなってくれそうな人に「片っ端からコンタクトした」という。その結果、実際に面談まで漕ぎ着けた数はおよそ15名だった。
出資を依頼するに当たっては、「お金を無駄にはしません」と熱く語るしかなかった。トラックレコードはもちろん、ベンチャーキャピタリストとしての経験すら一切なかったからだ。その中で、アーリーステージの企業へ投資する意義やその経営をサポートすることのコンセプトを、思いを込めて説明した。
結果的に、先見性のある大手機関投資家や有力企業の創業経営者の方々から出資を得ることができた。第1号ファンドに対して大手機関投資家が出資するというのは今でも珍しいことだが、「アーリーステージで投資し、経営をサポートする」というコンセプトに共鳴し、グロービスがそれを実現できるという可能性を信じてくれたのだ。こうして1996年10月末に、5.4億円の第1号ファンドを設立することができたのである。
なお、堀から誘われて第1号ファンドから参画した仮屋薗は笑いながら当時をこう振り返る。「10億円分は出資者とはほぼ話はついているのであとはクロージングよろしく、という感じでバトンタッチされたのだけれど、契約書締結や組合設立など蓋を開けてみたら色々と大変なことがわかった。ファイナルクローズでなんとか5億円に達したのが現実で、ファンドレイズって最後まで全く気を抜けないものだなと実感した。」
経験がなく、また、参考にするべき先行プレイヤーもいない手探りの状態での投資活動であることに加えて、ファンド創設の翌年・翌々年は大きく景気が冷え込んだこともあり、第1号ファンドは厳しい船出となった。仮屋薗は「投資したお金が親会社に流れたり、社長がお金を自分の口座に入れたりということがあった。堀さんと二人で乗り込んでいって、何とか取り戻したりもした。失敗を通じて学び、師となるような素晴らしい人々に恵まれて、さまざまなことを教えてもらった」と当時を振り返る。
時にはそんな苦い経験をしながらも、結果的に、ファンドは大きな成果をあげることができた。合計で13社に投資し、うち6社が株式を公開したのだ。公開した6社のうちの一つ、ワークスアプリケーションズの牧野正幸CEO(当時)は、創業間もない頃は「会社が若い」というだけで100以上の投資家に投資を断られたことに触れ、「その中でグロービスだけが話を聞いてくれ、最初に投資をしてくれた」と語る。
投資のリターンも大きく投資倍率で12倍、それぞれ1億円を出資してくれた先述の出資者の方々には投資額の約8倍ものリターンを返すことができた。
こうしてグロービスのベンチャーキャピタル事業はその礎を築くことができた。
設立3年目で米大手VCと対等パートナーシップ、VC運営の世界標準を日本に導入
1999年3月5日、エイパックスとグロービスとの合弁会社「エイパックス・グロービス・パートナーズ」の設立が日経新聞で報じられた。
この合弁会社設立はグロービスにとっても大きなインパクトがあるものだった。第1号ファンドが5.4億円だったのに対し、第2号ファンドとなるエイパックス・グロービス・ファンド規模は、大胆にも、その約40倍の200億円だったからだ。また、当時グロービスのベンチャーキャピタル部門は、設立からわずか3年ほどの新興勢だったが、他方でエイパックスは、国際的に事業を展開するアメリカの巨大なベンチャーキャピタルで、アップルコンピュータに投資するなど、アメリカのベンチャーキャピタルの歴史をつくってきたような会社だ。そのエイパックスとの対等な出資比率での合弁会社設立だったという点も意義深い。
エイパックスとグロービスがタッグを組むことになった経緯はこうだ。
エイパックスは当時、日本進出を目論みさまざまな方法を検討していた。いくつか大きなファンドの買収も検討したものの、結局はゼロベースに近い状態からスタートできるほうがよい、そしてその場合には起業家的なチームと組む必要があるとの結論に至った。その筆頭候補として名前があがったのが、設立されたばかりのグロービスのファンドだったそうだ。堀と仮屋薗は、ニューヨークでエイパックス代表のアラン・パトリコフ氏と面談する機会を得た。
グロービスのファンドを進化させる千載一遇のチャンスだと考えた堀と仮屋薗は、初回面談で勝負に出た。軽いプレゼンだと思ってミーティングに臨んだパトリコフ氏に対して、勝手に書き上げた80ページを超えるジョイントベンチャーの事業計画書を持ち込み、プレゼンをはじめたのだった。フライト当日の朝4時に書き終わり、キンコーズに駆け込んで印刷した渾身のドキュメントだ。「半分くらい説明したところで、もう分かった、グロービスと組むことに決めたから、プレゼンは切り上げてくれと遮られてしまった」(仮屋薗)。パトリコフ氏は、その場からテレビ電話で、ロンドン、パリ、そしてテルアビブのパートナーに連絡を取り始め、堀はその足でロンドンに飛び立った。
こうして、エイパックスとグロービスとの協業関係がはじまったのだが、無論、合弁会社設立は一筋縄ではいかなかった。グロービスが望む対等出資に対して、エイパックスがなかなか首を縦に振ってくれず、条件交渉が難航したのだった。粘り強く交渉を続けた結果、ついには望んでいた50対50の対等出資を勝ち取ったのだが、代表の堀はパトリコフ氏に対して、次のように言って説得したのだった。「現時点ではあなた方は大きくて、僕らは小さいことは認める。でも、僕らは、将来のビジョンと可能性を持っている。あなた方も最初は小さな会社から始めてここまで大きく作ってきたように、僕らにも同等のことができると強く信じている」
こうして合弁会社の設立が決まると、グロービスは200億円のファンドを集めるための「旅」に出た。エイパックスからの紹介やエイパックスの名前を出すことで世界中の投資家に会う機会が得られたのである。そして、アメリカ全土、ヨーロッパ、アジア各国、オーストラリアまで、全世界を巡って何十回ものプレゼンテーションを行ったのである。その結果、200億円の資金を集める目処が立ったところで、エイパックス・グロービス・パートナーズの投資活動が始まった。
1号ファンドは大きな成果をあげることができたものの、ベンチャーキャピタルの経験がまったくない状態からスタートしたため失敗を通じて学んでいくような状況でもあり、まだまだアップデートすべきことは多かった。パトリコフ氏も当初、グロービスのベンチャーキャピタルは「グリーン(未熟)だと思った」という。そこでエイパックスはグロービスに、「テクニックとディシプリンを教えた」(パトリコフ氏)。グロービスのメンバーは、現地のベンチャーキャピタリストと共にエイパックスのオフィスで研修を受けた。また、エイパックスは合弁会社設立から2~3年のあいだ、常時1~2名を日本に送り込み、彼らからも多くのナレッジが継承されていったのだ。
グロービスのメンバーが特に多くを学び、鍛えられていったのが、エイパックスとの議論を通じてだった。投資委員会ではエイパックス側の承認も得る必要がある。その場でパトリコフ氏と議論を戦わせるのだが、そこでの議論が非常に激しいものだった。厳しい指摘や痛烈な批判に対して投資チーム側は、自分たちの考えを述べ、必死で説得していく。ときには、一度持ち帰って調査をしなおすこともあった。戦って、戦って、戦い抜くと、最後に必ず「お前たちには、Gut Feelingがあるか(本気でやる気があるのか)」と聞かれる。これが最終テストで、ここで「イエス」と答えられれば投資が決まる。最後の最後に問われるのは、投資チームの覚悟なのだ。
こうした厳しい議論に向けて、投資チームのメンバーは徹底して調査を行うことになる。また、投資のロジックについても考え抜くようになる。すると自然と、投資の方針や投資後のサポートの方針なども固まってくる。グロービスは、設立当初に出資比率を決める際の議論でも屈しなかったように、パトリコフ氏らの厳しい姿勢に対してもくじけずに戦っていったのだった。
ライブドアショック、リーマンショック、そして東日本大震災による大打撃
エイパックスとの提携を経て、グロービスは投資の手法が洗練され、ベンチャーキャピタルとしての確固たる実力をつけることができた。国際的なネットワークはもちろん、第1号ファンドのときには皆無だった金融機関に対してのアクセスも広がった。
それまでの蓄積をもとに単独でのファンドレイズが可能になったグロービス・キャピタル・パートナーズ(GCP)は、2006年、満を持して180億円の第3号ファンドを立ち上げた。「日本のベンチャーキャピタル」は世界的にみてもニッチなアセットクラスだが、第3号ファンドは、投資家の実に8割が海外の投資家であった。2000年代という“日本ベンチャー黎明期”に、海外投資家の評価と信頼を勝ち取ったのである。
しかし、そんな喜びも束の間、日本のベンチャー業界は強烈な逆風にさらされた。最初の逆風は、2006年に起きたライブドア・ショックだ。この粉飾疑惑事件により、起業家のイメージが一気に悪化した。続けて2008年にリーマンショックが起こり、経済が回復しかけた2011年には東日本大震災に見舞われた。
特にリーマンショックの影響は甚大で、活動休止や撤退するベンチャーキャピタルが続出し、国内のベンチャー産業は壊滅的状況に陥った。
GCPは幸いにも第3号ファンドの資金調達を終えていたので投資余力はあったが、困ったのは投資方針である。どの産業分野に、どのような戦略で投資をすればよいのか。これほど外部環境が悪化しても、リターンが出せるのか。まったく見当がつかなかった。ベンチャーキャピタルの活動には、個人技的な側面もある。過去10年間は、優秀な個人が集まればうまくいくと考えていたが、業界内でこれだけベンチャーキャピタル離れが進むと、属人化したアプローチでは、GCPも空中分解しかねない。投資活動だけでなく、GCPはどういう組織であるべきか、という課題も突きつけられたのである。
苦境の中、「ベンチャーキャピタリスト12訓」を制定、反転攻勢で攻めの投資へ
仮屋薗はこの課題に真摯に向き合い、GCPとして、キャピタリストとして、ぶれない価値観の軸を持てるように作成したのが、一筆入魂の「ベンチャーキャピタリスト12訓」である。2009年の社内合宿で発表し、社内の行動指針としてホームページにも掲げた。この12訓を体現し、日本の産業創造に全身全霊をかけようとする若い世代に権限を委譲することにより、リーマンショックや震災の苦境を乗り越えた。12訓は同業他社のキャピタリストにも共感を呼び、一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)の研修でも広く学ばれている。
また、苦難の時期にGCPメンバーのもう一つの支えになったのが、百戦錬磨の海外キャピタリストや投資家たちの言葉だ。景気後退期になれば投資が控えられるが、そういう悪条件の中で登場したベンチャーほど、中長期的に力強く成長していく。だから、あえて攻めの投資を行い、しっかりと良い会社をバックアップすれば、その先により良いリターンにつながる機会が巡ってくるという。
この言葉を胸に刻んで、GCPはギアチェンジを行った。それまでは紹介案件を中心としていたディールソーシングのスタイルを変更し、信頼できる起業家に自らアプローチして投資する方向へ大きく舵を切った。そのときの投資先の一例が、東日本大震災で東北の野菜が出荷不能となり、窮地に追い込まれていたオイシックスだ。この時、日本が苦しい状態だからこそ、自分たちの手で息の根を止めるのではなく、我々が一緒に盛り上げていくべきだと、GCPは投資を決断した。その他の投資も含めると、GCPは東日本大震災発生後1ヶ月の間に総額約10億円の投資実行を行い、ベンチャーエコシステム全体を鼓舞するべくその旨のプレスリリースも行った。
オイシックスを筆頭に、この時期に投資した他のスタートアップも、アベノミクスを追い風に2013~2015年に次々とIPO(株式公開)した。
海外機関投資家が日本から撤退、国内機関投資家の「胆力」に支えられ危機を乗り越える
第3号ファンドが設立されたのは2006年。一般的にファンドレイズは、既存ファンドの新規投資を完了させるのに必要な3〜5年の周期で行われるが、第4号ファンドは6年の間隔をあけた2012年頃から資金調達を開始した。
期間が空いたのは言うまでもなくリーマンショックの影響であるが、他方で、しっかりとファンドレイズを行うことで一定の金額は集まることも期待していた。堀、仮屋薗、そして第4号ファンドから新しくパートナーに就任した今野と高宮の4人は、ファンドサイズのターゲットを、第3号ファンドから縮小して120億円〜150億円と設定し、全米を行脚する資金調達の「旅」に出た。当時はZoomなども普及しておらず、資金調達の面談はオフラインでの実施。一日で米国中部と東部でそれぞれ複数の面談を行うなどの強行日程をこなした。アポ取りやロジの手配を担当した高宮は「あれはデスマーチだった」と当時を振り返る。
デスマーチの結果は、惨憺たるものだった。リーマンショックの影響で海外投資家はベンチャーキャピタルへの投資意欲が大いに減退しており、ましてや、当時においては極めてニッチなアセットクラスである「日本のベンチャーキャピタル」に出資するなど毛頭考えられないという考えだった。せめて前号ファンドの実績を示すことができれば好材料になるものの、その時点ではまだ第3号ファンドからリターンは生まれていなかった。素晴らしい投資先が揃っており、結果が出るのは時間の問題であると力説するもまったく信じてもらえなかった。結局、新規の出資者候補との面談に漕ぎ着けても「おととい来やがれという反応」(今野)。着席するやいなや、プレゼンの時間すら与えてもらえず面談の冒頭で出資を断られたこともあった。挙げ句の果てには、頼みの綱であった既存出資者たちからもことごとく出資を断られてしまった。
第2号ファンド以来、海外投資家を中心に資金調達をしてきたGCPは窮地に追い込まれた。追い込まれていたのはGCPだけでなく、当時はVC業界全体にとって冬の時代だった。実際に、第3号ファンドが終盤に差し掛かるころには、周りのVCは次々と撤退していった。
そのような状況下でGCPを支える意思決定をしてくれたのは、国内の機関投資家たちだった。
国内の一部の先進的な機関投資家は、2000年代から日本のベンチャーキャピタルというアセットクラスに注目して研究とリサーチを続けてきており、GCPも、彼らとは10年以上ディスカッションを続けてきていた。一般的に機関投資家は、2~3ファンドの状況をみてから出資意思決定を行う。GCPもファンド数及び実績が積み上がっていたことで、ようやく出資検討してもらえるフェーズに差し掛かっていた。そのうえで、震災時における投資姿勢に現れる使命感などが評価され、“冬の時代だからこそベンチャーキャピタルを支える”という大胆な意思決定をしてもらうことができた。ベンチャーキャピタルは大胆な意思決定でスタートアップを支える存在ではあるが、実はベンチャーキャピタル自身も、機関投資家の大胆な意思決定に支えられているのだ。
このようにして、10年を超える長年の関係がようやく実り、独立行政法人中小企業基盤整備機構をはじめとして、日本を代表する機関投資家陣が出資する第4号ファンドが立ち上がった。
無事ファーストクローズを終えて一安心とおもいきや、事はそううまくは運ばなかった。ファンドの最低調達金額を120億円と設定していたにもかかわらず、ファイナルクローズの1週間前に5億円分がスリップし、最低金額を下回る形になってしまった。あわや資金調達全体が不成立となるところだったが、最終的には出資者の皆さまに納得していただき、2014年に合計金額115億円にてファイナルクローズとなった。こうして、2年に及ぶ苦難のファンドレイズ活動が幕を閉じた。
逆境から飛躍した骨太の起業家たち
第4号ファンド設立当時、ファンドレイズ側が壊滅的だったのは前述のとおりだが、いわゆる“起業”も決して盛り上がっているとはいえなかった。しかし逆に言うと、ブームの有無に関わらず起業を志す「本当にやる気のある骨太な人しか残っていなかった」(仮屋薗)。
また、この時期はいま振り返れば、二つの大きな起業チャンスが訪れていた時期でもあった。ソフトウェアのクラウド化と、スマートフォンへのデバイスシフトである。ソフトウェアのクラウド化に関しては、マネーフォワードやフリーなど、企業向けクラウドソリューション(今でいうSaaSビジネス)の代表的企業がこの時期に創業されており、GCPは企業向け経済情報サービスであるSPEEDAなどを運営するユーザベースなどへの投資を行った。スマートフォンへのデバイスシフトに関しては、GCPはメディア領域ではニュースアプリを運営するスマートニュース、ゲーム領域ではアカツキ、そしてコマース領域ではフリマアプリを運営するメルカリなどへの投資を行った。
特にスマートニュースやメルカリへの初回投資時点では、両社ともマネタイズには未着手で文字通り“売上ゼロ”であった。そして当時の相場観から考えればバリュエーションも高く、必要なチケットサイズも第4号ファンドからするとかなり大きかった。加えて、両社とも創業時から海外展開を見据えており、2013年当時のベンチャー業界においては異例の構想・事業計画であった。
「マネタイズを開始してもトラクションを維持できるのか」「先行する競合がいるが、勝ち筋はあるのか」「海外展開への資金投下をどう考えるべきか」「リスクが大きすぎるのでは」など、投資委員会での議論は紛糾した。
その中で、メルカリの投資委員会で仮屋薗が放ったのは次の言葉だった。「いつの時代も、その時代を象徴するスタートアップが生まれる。20年間キャピタリストをやってきて、メルカリにはその匂いがする。10年に1度現れる会社だ」。また、堀は、スマートニュースの投資委員会で「これから、こういう世界を目指すベンチャーが増えてくる。日本に留まらず、世界を目指してほしい。」と前例のないチャレンジを力強く後押しした。
壮大な構想にチャレンジするアウトライヤーな起業家をバックアップするべきという原理原則に立ち返り、GCPは両社に対して、リードインベスターとして投資を行なった。
大いなる産みの苦しみを味わった第4号ファンドだったが、このようにして素晴らしい投資先に恵まれた結果、Preqinと一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)が共同で行っている国内VCパフォーマンスベンチマーク調査2022年版では、調査開始以降全ての100億円以上の国内VCファンドを対象としたセクションで、GCPの第4号ファンドは第1位となり、世界水準においてもトップレベルの運用成績をマークすることとなった。
成長が加速し、一致団結に向かうベンチャーキャピタル業界
2012年12月、当時の安倍政権から発表されたのが、アベノミクス「3本の矢」である。日本の産業再興にスタートアップ企業の育成は欠かせないという考え方を前提としており、さまざまなスタートアップ支援や、大胆な金融緩和が行われた。
この対話の受け皿となるベンチャーキャピタル側の業界団体が、一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会(JVCA)である。当時、まだ一枚岩ではなかったベンチャーキャピタル業界を一致団結させるという意味で協会への期待は高かったが、当時のJVCA会長だった尾崎氏が任期中に大病を患ってしまい続投が難しくなってしまった。そのときに、尾崎氏に病室に呼ばれて後継者として指名されたのが仮屋薗だった。パートナーとしてGCPにも責任を負う仮屋薗にとって非常に悩ましい打診ではあったが、これからの業界を担うパートナーたちを束ねてほしいという尾崎氏の期待に応えるべく、仮屋薗は決意を固め、2015年7月、JVCA第7代会長に就任した。
また、それまでの起業家は、いわゆる“アウトサイダー”な人が多かった。アウトサイダーこそが進化・革新を生み出せるというのはよく言われることだが、それでも世間からは、ベンチャーというものが少し“怪しい存在”として見られていたことも否定できない。しかし、成功して社会的な影響力を持つベンチャーが増えていくなかで、起業家という存在もメインストリーム化して、大手企業出身者や、金融機関やコンサルティングファームなどのプロフェッショナル職の出身者が起業するケースが生まれはじめていた。また、東日本大震災を経験した若者が社会課題を解決するために起業するなど、事業を興す動機も社会性を帯びるようになっていった。
こういった追い風を受けて、2013年以降は新たに多くのVCも立ち上がり、日本のベンチャーエコシステム全体が急成長していった。仮屋薗はその状況を「喪が明けた感じがした」と表現する。「ベンチャー」が「スタートアップ」と呼ばれ、市民権を得られるようになっていったのも、この頃からであった。
日本のVCに欠けていた「世代承継」と「グロース支援」に挑戦
振り返れば、1996年に設立した1号ファンドのコンセプトは、アーリーステージ投資を行い、スタートアップの経営をサポートするという日本初のプラクティスに挑戦するというものだった。そして2号ファンドは、アメリカの大手ベンチャーキャピタルとの対等の合弁事業を通じて、投資活動やファンドマネジメントの水準を一気にグローバルスタンダードに引き上げることに挑戦した。その後、リーマンショックや東日本大震災などのハードシングスに向き合う苦しい時期もあったが、GCPは自らを、そして日本のベンチャーキャピタルのプラクティスを進化させるために、常に前例がないことに挑戦し続けてきた。
その点において、第4号ファンドと、2016年に設立された160億円規模の第5号ファンドは、第二世代のパートナーがファンドをリードすることへの挑戦だった。
GCPは、原則として未経験者を採用し、オン・ザ・ジョブ・トレーニングを通じてゼロからキャピタリストを育成している。第5号ファンド運営とファーム経営は、経験ゼロからキャピタリストとしてのキャリアをスタートし、第4号でパートナーに就任した今野と高宮が中心となってリードした。特にこだわったのが組織開発である。ベンチャーキャピタルは基本的に、キャピタリスト個々人が持つ能力・才能・センスを最大限発揮することでパフォーマンスが高まるが、他方で、個人最適に傾倒しすぎるとファンドの土台となるはずのファームの持続性が危ぶまれる。GCPは第4号ファンド以降、ファームや組織への貢献を奨励する「イニシアチブ制度」を設計・運用するなど、ファームの持続性や拡張性の強化に取り組んでいる。
また、日本のスタートアップエコシステムの課題として長らく指摘されているのが、グロース資金が不足しているという点、そしてその結果として、上場後も持続的に成長を続けるスタートアップが少ないという点である。スタートアップが上場後も持続的に成長を続けるためには、機関投資家などの安定した株主に支えてもらう必要もある。そのためには、未上場の段階で中核事業を盤石な状態にして、さらなる成長のための第二、第三の矢を仕込んでおくことが重要だ。しかし、日本の市場には未上場段階で調達できるグロース資金が欠けていた。その足りない資金をIPOで調達せざるを得ないため、結果的に、米国と比較して”早産”なIPOが多いと指摘されている。グロースステージまで資金的にバックアップできるファンドが登場しない限り日本のエコシステムも進化しないと考えたGCPは、この課題の解決に取り組むことにした。
具体的には、1社あたり最大50億円を投資できるようにするべく、大胆にも、第5号のファンド規模の約2倍の400億円規模のファンドを組成するべく動きだした。これに対して、当時は、社外からは懐疑的な意見も多く寄せられたという。
「そもそも日本にグロース投資の機会があるのか?実際に投資先が出現する見立てはあるのか?というツッコミも多かった」と高宮は語る。
ファンドレイズの過程においても、出資者には第6号ファンドのコンセプトと社会的意義についても賛同いただきつつも、少なからず同様の指摘があった。そこでGCPは、ストラクチャーに工夫を加えた。従来どおりの新規投資を行うメインファンドと、グロース局面における追加投資専用のサイドファンドを分けたのであった。結果的に、第6号ファンドは、多くの機関投資家の参画のもと、合計400億円にてファイナルクローズし、期待通り、多くの素晴らしいスタートアップとの出会いに恵まれ、順調に投資先をファンドに組み入れていった。
スタートアップのグロースに必要なのは、資金だけではない。組織開発の面においてもグロースを支えるべく発足したのがGCP Xという組織である。
2013年以降のスタートアップエコシステムの発展と共に、日本におけるリスクマネーの供給量は徐々に増加し、大きな挑戦をする起業家も増えてきていた。スタートアップが志向する事業規模や目指す世界観の実現可能性を高めるには、個々のキャピタリストのサポートに加えて、更に強力な支援を実施していくことが必要になりつつあった。とりわけ、強い経営チームや組織をいかにして構築するかはスタートアップの成長における普遍的なテーマである。そのような問題意識のもとに、新しい組織的な挑戦として、人・組織をコアドメインとした投資先支援特化チームを立ち上げる構想が生まれた。すでに米国のVC業界では、"Platform Team"と呼ばれる投資先支援特化チームを持つことがデファクト化していた。
このチームを率いるリーダーを探す中で再会したのが、小野である。小野は、GCPの第1号ファンドの投資先であるネットエイジ社のEIR(Entrepreneur In Residence)として起業した経験があり、GCPや仮屋薗とは20年来の関係があった。GCPはもちろん、スタートアップのエコシステム全体も、このような数十年来の人間関係の蓄積によって支えられているのである。起業家、経営者、そしてヘッドハンターとしての経験を持つ小野をヘッドに招聘することで、2020年からGCP Xは本格始動した。
日本のスタートアップエコシステムの発展に向けて、挑戦は続く
2022年、GCPは第7号ファンドの資金調達に着手した。第6号ファンドの思想をさらに先鋭化させた第7号ファンドは、国内巨大産業のアップデートやグローバル展開を志すスタートアップを中心に投資することをコンセプトに据えた。“失われた何十年”からの脱出が見えない日本において、次世代産業創造の契機となりうる市場・テーマに取り組み、やがて巨大企業へと成長するスタートアップをバックアップすることが狙いだ。
2023年3月、第7号ファンドは727億円でファイナルクローズとなった。過去最大となる第7号ファンドでは、1社あたり最大100億円規模の投資を行うことが可能となった。1996年に組成した第1号ファンドが5.4億円だったことを思うと隔世の感があるが、この規模のファンドの組成が可能になったのは、日本のスタートアップエコシステム全体が大きく成長してきた証左であるといえよう。
新たにパートナーに就任したのは、福島と湯浅である。福島も湯浅も、これまでのパートナーたち同様に、キャピタリスト未経験者としてスタートして、その後GCPで経験を積んできたメンバーだ。三世代目のパートナーが登場したベンチャーキャピタルは世界的に見ても稀有であるといわれる。
投資活動及び支援活動において取り組みを強化したのが、「グローバル」のアングルである。GCPは、日本発のユニバーサルなソリューションの誕生を後押しするべく、第3号ファンド以降投資を控えていたテクノロジー系(いわゆるディープテック系)のスタートアップへの投資を再開した。また、投資先のグローバル展開支援を見据えて、アメリカはサンフランシスコに新拠点を開設し、投資先の海外拠点幹部の採用支援にも注力している。
奇しくも政府は2022年を「スタートアップ創出の元年」と位置づけ、同年末に「スタートアップ育成5ヵ年計画」を策定・発表した。政府はスタートアップを通じて日本経済の立て直しを図る意気込みを見せ、過去最大規模の約1兆円の予算をスタートアップ関連施策に充てることも決定した。
官民問わず、日本全体で一致団結してスタートアップを盛り上げる必要がある中で、GCPも自らの役割を果たすべく、今も挑戦を続けている。